自閉症の息子と共に

自閉症の子どもを育てた父のエッセイ

おてつだい

 ちいさな子どもは、お手伝いが大好きだ。母親が炊事をしていると「お手伝いする」と言って何かをしたがる。「包丁は危ない」と言うと「猫の手でやる」と言って参加したがる。きっと、「ありがとう」と喜ぶ親の顔が見たいのかもしれない。そして、「いい子だね」と言われたいのかもしれない。これは4人の娘を育てた私の体験でもある。

 そして今、23歳になった息子もときどき家のことをやってくれる。夕方になると窓のシャッターを下ろしてくれたり、キッチンのシンクの中に置いてある鍋や食器を洗ってくれたり、食洗器の中の洗浄済の食器を食器棚へしまってくれたりする。それらはすべて自分で判断してやってくれている。特別支援学校の高等部へ通っていたころ、担任の先生方から「自分で仕事を探す」ということを教えられた成果であった。

 そんなとき、私は息子に心から「ありがとう」と言う。そしてその気持ちを表すために、ときどき最敬礼をして「ありがとう」と何度も言うのである。それを見て息子は「んん」と言葉にならない返事をする。特にニコリともしない。心のなかでは嬉しいのかもしれない。しかし、それはどうでもよい。私はとにかく心からの感謝を伝えたいのだ。それはなぜか。私にはひとつの忘れならない記憶がある。

 以前、テレビで見た光景だった。障害児を社員として受け入れている神奈川県のとある工場のドキュメントだった。近くの特別支援学校の先生が、どうか生徒を使って欲しいと社長さんにお願いして、試しに2名の生徒を採用していただいた。たしか短い期間だった。その2名の生徒さんは、毎日欠勤も遅刻もせずコツコツと仕事をこなした。職場の人たちも彼らの熱心さに心を奪われ、社長さんにあの二人を正式に採用して欲しいと嘆願したそうだ。そして、その二人は正式に社員として採用された。社長さんは知り合いの僧侶に尋ねた。「どうして、欠勤もせず、遅刻もせず、あんなにも仕事に集中できるのか」と。すると「人の喜びというものは、誰かに感謝されること、褒められること、頼りにされること。その3つである」とその僧侶は答えられた。私の心にもこの言葉が植え付けられたのである。そのドキュメンタリーとの出逢いがあり、私は息子に言葉だけでなく、最敬礼して感謝を伝えたいと思うのである。

 しかし、ときどき困ることもある。キッチンのシンクもきれいに洗ってくれるのだが、食器洗い用のスポンジでシンクを洗ったり、お風呂で体を洗うためのナイロンタオルで風呂の床を洗ったりするので、「え~それは違う」と叫びさくなる日もあるのである。